■ 『 Reversal 』 水天宮拓仄

 東京・銀座のとある場所。
 待ち合わせに適している目印を背に、スラリと背の高い男が眉間に皺を寄せて立っていた。
 その男を遠巻きに女性達が小声で耳打ちをしたり、チラリと視線を送ったりしている。
 その事に、まったく気づいていないのか、わかっていて無視しているのかは定かではない。
 いつもなら数多の女性に声をかけられるであろう彼に今日ばかりは声をかける女性は一人もいなかった。皆、遠巻きに眺めているだけである。
 その理由は、彼が険しい表情で一点を睨みつけるかのように見つめているからだった。
 男が見つめている先から人影が一直線に向かってくる。
 だが彼はそれが何者なのかは判断がつかないのか、変わらず眉間に皺を寄せたまま立ちつづけていた。
 向かってきた人影が目の前に立ち止まる。
「センパイ!待ちました?」
 聞きなれた声を耳にしたはずの男は微動だにしない。
 自分の目の前…人間が立っているであろう位置を見つめた。
「どうしたんですか?3分待ち合わせに遅れたの怒ってるんですか?」
 目の前で手を振る。すると、ようやく男に動きがあった。
 視界におぼろげにうつる頭を両手で挟むようにして掴む、ぐいっと自分の顔に引き寄せた。
『きゃーーーーーーっ』
 唇が今にも触れそうなほどの接近。周囲を取り囲んでいた女性が黄色い悲鳴をあげる。
『夷澤さんっ嫌っやめてください!』
 中には両目を覆って甲高い声を上げる女性もいた。
「なっなっ…何すんですか!」
 こんな人目の多い場所で突然唇を奪われそうになった夷澤と呼ばれた男は、思い切り拳を唇を奪おうとした男に向けて繰り出した。
―ガツッ!―
「え?」
「痛ってぇぇぇ!」
 繰り出された拳は見事に無礼な男にクリーンヒットしていた。
 拳を左頬に受けた男は地べたに尻餅をつき、左頬をさすりながら声をあげた。
「セ…センパイっ!大丈夫っすか!」
 慌てて夷澤凍也は這いつくばる男を気遣い、しゃがみこみ自分が殴った顔を覗きこみ、心配そうな声をかけた。
「トーヤ…お前なぁ。会っていきなり殴るか?普通!」
「だ…だって、センパイがいきなりっ」
 顔を赤くして大声をあげる。自分達がどれだけ目立っているのが、わからないらしい。
 片や立っているだけで人目を引く色男。
 片や日本ボクシング界・期待の星。フライ級日本チャンピンの夷澤凍也。
 この組合せならどんな人込みでも目立つというものだ。
「…それにしても、ちっとは手加減しろよな。お前、仮にもプロで、しかも日本チャンプだろ?素人相手にひどすぎっ」
 座り込みながら抗議する男は、夷澤凍也の高校時代からの先輩兼恋人の葉佩九龍である。
「だっていつもなら絶対に当たらないし…なんで避けないんですか!」
 ついには逆ギレして立ち上がり座ったままの九龍に罵声を浴びせる始末。
「逆ギレかよ」
 ブツブツ言いながら前髪をかきあげながら、立ち上がり、尻や足についた汚れを軽く叩いた。
「だいたい、なんなんすか。今までずっと放置してるくせに、いきなり呼び出したりして」
 バツが悪そうにプイっと横を向く凍也は、ボクシング界で名を馳せたと言ってもまだまだ九龍にとっては可愛い後輩であり、愛しい恋人であった。
「今日はバレンタインだろ?今日くらいは…な」
 にっこりと笑って凍也の頭を撫でる九龍の手を、一瞬嬉しそうに受け止めた凍也だったが、すぐに軽く叩き落とした。
 もちろん、照れ隠しであることは九龍にはわかっていた。
 「だ、だいたい、俺のパンチなんて“へなちょこ”なんでしょう?どうして避けないんです?ハンターランキング1位の腕ききハンターが」
 ふてくされ気味に早口でまくし立てる凍也の肩に手を回して、苦笑いを浮かべた。
「見えないのにお前の拳をどうやって避けろって言うんだよ。高校時代と違うだぞ」
「見えない?」
 九龍の言葉を繰り返して凍也はある答えに行き着いた。
 そういえば、いつも笑みを浮かべている目元が妙に険しい。
 自分が近づいても反応が遅かった事など、思い起こせば答えは案外単純な事だった。
「コンタクトどうしたんすか?」
「無くした」
「予備は?」
「ちょうど切れた。明日、いきつけの店で受け取る予定」
「……ったく」
 呆れたように呟くと凍也は九龍の手を取ると、ぐいぐいと歩き出した。
「おいっトーヤ!どこ行くんだよ?これから予約したホテル行くつもりなんだけど」
「そこへ行くにしても、アンタの目が見えなきゃどうしようもないでしょーが」
 何に対して怒っているのか首を傾げる九龍は、大人しく凍也の荒っぽいエスコートに身を任せた。


「どこに連れてきたんだ?」
 ずっと握られていた手を解放され、自動ドアの開いた気配を感じた九龍は、ほとんど見えない視界ながらもどこかの店に入った事を察した。
「いいから、こっちに来てください」
 袖をひかれ、後ろから両肩を掴まれたかと思うと下にぐっと力が加わり、その力に従うと少し固い感触のするクッションに腰を下ろされた。
「なんだ…よ?」
 そう口を開くと視界に変化が生じた。はっきりとは言えないが、さきほどよりは視界が開けた事に九龍は声をあげた。
「おっ?」
「ぴったりのものは無理っすけど、今日はこれくらいで我慢してください」
 目の前に置かれた鏡に洒落たデザインの眼鏡をかけた自分の顔が見え、その斜め後ろに凍也のいつもの顔を見つけて笑顔を浮かべる。
「あの…プレゼントっすから」
「いいって、眼鏡なくても。明日になればコンタクト取りに行くし」
 鏡を通して会話を続ける。
「いえ、ダメです」
「なんで?別に俺は不自由してないし、ホテルまでの道順だって覚えてるし、夜だってどうせ電気消すわけだし?」
 いやらしい笑みを凍也に投げかけると後ろから頭を軽く叩かれた。
「いいから、ダメなんです。たまには俺の言う事きいてくださいよ」
「言う事はきいてもいいけど、理由くらいは聞かせて欲しいもんだけど?」
 鏡ごしに凍也の顔を覗きこむ視線に凍也が一瞬息を呑むのがわかった。
「せっかく…にいるのに、センパイの視界に…映らないのが……いらない」
―セッカクイッショニイルノニセンパイノシカイニウツラナイノガキニイラナイー
 鏡に映る九龍を見つめ、鏡ごしに目が合う凍也はさっと目を伏せて最後の方は口篭もる。
 何を言っているのか最後の方は九龍の耳に届かなかった。
「どうした?」
 振り返って椅子から立ち上がり凍也を見つめる。
「いえ、あの…会計します!」
 必要以上に大きな声を上げてしまった凍也は頬を赤らめた。なぜか焦っているように見える。
 キョロキョロと店内を見回し、近くにいた店員に向かって軽く手を上げて呼んだ。
「彼のかけているものをお願いします」
「調整などいかがなさいますか?数十分お待ちいただく事になりますが」
 店員の言葉を聞いて、今度は九龍がそれを断った。
「いや、結構です。このままで、ケースもいりませんから札とシールだけ取ってください。すぐに使いますので」
「はい、かしこまりました。では、お預かりします」
 九龍が自らはずした眼鏡を受け取ると、手早く値札やシールを取り除くと再び九龍の手に戻し。
 にっこりと無言で会計を促す店員に凍也は一歩進み出て、自分が会計をするのだと主張した。
「それでは、こちらでお願いします」
 デザインで九龍に似合うと思って選んだだけの眼鏡は、さほど高価なものではなかったが凍也は九龍にプレゼントできた事が嬉しかった。
 高校時代から今まで、眼鏡をかけた九龍の姿を初めてだった。
 普段の九龍とのギャップが激しくて妙に胸が高鳴る事に凍也は大いに戸惑う。
 付き合いはじめてから、もう何年も経つ。
 普段は離れて暮らし、年に数回九龍の気まぐれでしか逢うことのできない恋愛にも慣れてきていた。
 今更、“九龍が眼鏡をかけた姿”ごときでドギマギしてしまう自分に心の中で渇を入れ、意を決して会計を済ませ、もう一度九龍の顔を見上げた。
―やっぱダメだっ…ちくしょうっー
 数秒見つめてすぐに視線を下げてしまう自分を悔しがる。
 その様子を見つめていた九龍はふっと笑うと人目も気にせず、凍也の肩を引き寄せて店を出た。
「センパイ?ちょっ…こんな場所で」
「おっと、すまん。お前があんまり可愛いからさ。お前、有名人なんだもんなぁ」
 肩から手を離して片目を瞑る九龍にまたも胸の鼓動が跳ね上がる。
 自分も愛用している眼鏡というアイテムを装着しただけで、どうしてこうも戸惑うのかわからなかった。
 仮に自分が眼鏡をはずしても九龍はいつもと変わらない。
―くそっ俺ばっかりこんなんで…ー
「トーヤさ、俺が眼鏡かけても格好良くて、自分よりも似合うから悔しいんだろ?」
 笑いながら、わざとらしく指で眼鏡を押し上げる仕草をする様すら凍也の胸を跳ねさせる。
 さっきから自分の鼓動がうるさくて、無駄と知りつつ耳をふさいでしまいたくなるくらいだ。
「ああ、もうっ」
「え?違うのか?」
 悪戯っぽく笑いながら歩調を速めた九龍に小走りでついていく。
 ホテルを予約していたと言っていた事から、予約の時間が迫っているのだろう。
「……ほんと、その通り。九龍さん、悔しいくらいに格好良いっす」
 数歩前を歩く九龍の背中に聞こえないほどの小さな声で凍也はそう呟いて、小走りから駆け足に切り替えて
「センパイ、早く行きましょう」
 自分から九龍の腕に自分の腕を絡めて歩調を合わせた。
 二人が一緒に過ごせる時間は極僅か。
 その時間を一秒一秒大事にしたい。
 自分の素直な気持ちを九龍に向けて、赤らむ頬も、高鳴る鼓動も隠しもせずに。
「九龍さん、今夜から眼鏡にしませんか?」
 そんな事を口走っていた。
「いやだね」
「どうしてっすか?」
「お前とキスする時、ぶつかっちまうだろ?」
 ホテルの敷地内に入って、周囲には人もいなくなっていた。
 九龍は立ち止まって凍也をすばやく抱き寄せ、慣れた手つきで顎をあげさせて唇を寄せた。
―コツンっ
 軽い金属音が二人の間に響き、唇は触れる寸前で止まったまま見つめあった。
「な?」
「ほんと、ですね」
 眼鏡同士を軽く触れ合わせて見つめあいながら、二人はくすくすと笑って顔を離す。
「じゃ、これで大丈夫っすね」
 凍也は自分の眼鏡を外すと、少し背伸びをして九龍の唇に自分のそれを軽く触れ合わせる。
 今度は柔らかい感触を感じることができた。


Happy Valentine
the end