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第六話 ヒビ
「・・・あれは・・・」
女子寮に帰宅する途中だった白岐は、男子寮の方から走り去っていく影を偶然に視界の端でとらえ、
改めて眼をやって見えなくなっていく姿に首をかしげた。
よく知った人物であり、ものの数十分前まで一緒に居た男子生徒である。
それを認識してまもなくまた男子寮からもう一人の男子生徒が飛び出してきた。
先に走り去った男子生徒―――葉佩九龍を追いかけ見失ったのだろう。
彼は寮の門まで走ると必死に辺りに視線を巡らせている。
「夷澤さん」
後ろから声をかけるとハッとしたように白岐の方を向いた。
どうやら気づかなかったらしい。葉佩のことで頭がいっぱいだったようだ。
「今九龍を見たわ。どこへ行ったかはわからないけれど」
「そう、ですか・・・」
落胆したように息を吐き、夷澤は再び辺りを見渡した。
追いかけたいがどこへ向かおうか決めかねている様子である。
夷澤が急いでいるのはわかるが白岐には聞かなければならないことがあった。
「聞いてもいいかしら」
「え?」
「九龍に何かあったの?」
葉佩九龍。あたたかで優しく、おおらかで自由な、太陽の似合う人。
その彼のあの大きくて広い背が何故哀しげに見えるのかが彼女にはわからなかった。
「さっきまで彼は笑っていたのに」
楽しそうに、嬉しそうに、幸せそうに。
白岐が柳眉を寄せてそういうと夷澤の表情が揺れ、
なんと説明すべきか迷ったように口を開くが何も言えないまま閉じてしまう。
夷澤の返答を待たずに白岐はさらに言葉を続ける。
「その花束、九龍が持って行ったものね」
夷澤の胸には傷ついた花束が抱かれていた。
部屋を出る直前に、放って置けなくて拾い集めてそのまま持ってきたものだ。
「知っているわ。彼は温室の花を摘んでいったの」
「・・・」
「あなたのために」
また、眼鏡の奥の瞳が揺れる。
「彼を追いかけるなら、あなたもきちんと心を決めて。あなたへの彼の想いは既にあなたの胸の中にあるわ」
わかるでしょう?
その言葉を聞くと夷澤は花束を抱く腕に力を込めた。
心なんてそんなもの、
「・・・絶対、九龍センパイを見つけます。今日中に」
それだけ答えると夷澤は大地を蹴った。
白岐はそれを見送り、思う。
―――どうか彼らに祝福を。
**********
「ああ、バレンタインが近いからかなぁ?バレンタインって言うのはね、えーと、そう!
大切な人に、大好きだよ!っていう気持ちをプレゼントにして贈る日なんだよ」
二月に入って少し経ったころ、葉佩は女の子も男の子も心なしかソワソワしていることに気がついた。
その理由を八千穂に尋ねたところ彼女はそう答えた。
葉佩の出身地であるエジプトにもバレンタインという風習はあるが、
幼いころから特殊な環境下にあった彼は一般的なものに疎いところがある。
加えて日本のバレンタインは少々独自性があり、八千穂の簡単な説明では葉佩がそれを知ることはかなわなかった。
女の子が男の子にプレゼント(特にチョコレート)を贈って愛を告白する日。
基本的にそう説明されるが、義理チョコ・友チョコといった社交辞令や感謝の表現、
お遊びも含んだ一面もある。愛を歌う日だというのに、渡す側もしくは受け取る側に
愛だの恋だの大切だのといった感情がない場合が大いにあるのだ。
しかし葉佩は、
(大事な、大切な相手に気持ちを送り、相手はその心を受け入れて受け取る。
あぁなんてロマンチックなイベントなんだろう!
そうだ、それならボクもトウヤにプレゼントしなくては!)と、こんな具合に若干間違って認識してしまった。
大切な人、ということで真っ先に浮かんできたのは夷澤凍也である。
お互い意識しあっているのはなんとなく感じているものの、特別なお付き合いをしているわけではない。
バディ以上恋人未満といったところか。
あいにく“間違い”は訂正されるようなことのないままで、葉佩の頭の中は彼へのプレゼントのことで占領された。
葉佩は胸を高鳴らせながら考える。
彼に何を贈ろうか。普通に買うのでは面白くないかな、でも遺跡内のものというのもどうだろう?
相応しいプレゼントとはどういうものなのか。
「花、なんてどうかしら?」
なかなか決まらないままのバレンタイン前日、遺跡調査を手伝ってもらっていた白岐にふと相談すると彼女はそう言った。
「花言葉に合わせたり、その人が好きな色を贈ったりすれば素敵だと思うわ」
「花・・・ウン、花もいいね!」
「種類は少ないけれど温室の花が綺麗に咲いているのよ」
「ボクが摘んで構わないの?」
「ええ、自由に使って。よかったら花を選ぶのも手伝うわ」
「アリガト、カスカ!ボク、花にするよ!」
そしてバレンタイン当日。
時間がないため学校はサボらざるを得なかった。
大切な人を想いながら花を選び、大事に大事に包んで胸に抱く。
そんなこんなで当日学校にいなかった彼は、本来なら自分も抱えきれないプレゼントをもらうことに
なっていたということも、気持ちを受け入れるわけじゃなくても受け取らざるを得ない状況があることも知らない。
だから。
愛しい気持ちを躍らせながら、愛しい人に会って。
その胸に抱かれるたくさんの“気持ち”を見て。
―――とてもとても苦しくなった。
自分ばかりが彼を大切に想っているわけではなかったのだ。
彼も、自分ばかりを特別に想っていたわけではなくて。
(ああ、トウヤにはたくさんいるんだ)
気づいたときにはあれほど大事にしていた花束を落としていた。
制止の声も聞こえないふりをして走り出していた。
止まるわけにはいかなかった。
(ごめんトウヤ、止まれないよ)
なにがこんなに心臓を締め上げているのか、これをどうすればいいか。
葉佩自身にもよくわかってはいない。
ただ、止まったら苦しいものが溢れてしまいそうで。
ひたすら彼は走るしかなかった。
逃げるしか、なかったのだ。
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