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第八話(二月完結)うおつき
普段使われていない小部屋の空気が、そこだけ白く乱れる。
「オレは」
それは心なしか、助詞にアクセントを置いた言い方だった。
――そうだ、他の何ものだって関係ない。
とっさに掴んでしまった葉佩の腕から視線を上げて、夷澤は目の前の男を真正面から見据えていた。
心音が、耳に近い。まだ戸惑っているような相手と目が合うと、
以前墓守として彼の前に立ちふさがった時とは違う、浮ついた緊張感が夷澤を襲う。
それは一つに羞恥であり、躊躇であり、また拭いがたい不安でもあった。
棘のように突き刺さるそれらに苛まれたままの喉は、少しでも力を抜くと、
まるで使い方を忘れてしまったかのように萎縮しようとする。
ならば、と、夷澤は片手だけで支えている花束に、ほんの少しだけ力を込めた。
どこか悲しげに、不思議そうな目をして夷澤を見るあの顔が、
またいつも通りの笑顔に戻ってくれることを祈って。
しばらく止めた息を吸い、そして胸の底から吐く。
それはきっと、何より簡単な言葉だった。
「……オレの特別は、アンタなんです」
アンタだけなんです、と、夷澤は確かめるように繰り返す。
伝えるべき相手に知らせるだけでなく、それを己が言ったのだと、夷澤自身が実感できるように。
彼にとっては素直に言えた、ほとんど初めての告白だった。
少しの間。
彼の言葉は少なくとも、葉佩の耳には届いたらしかった。
今まで能面のようにかたまっていた表情がほどけ、まず目を丸くする。
それから口角が上がりかけ、それを見守る夷澤が静かに安心しかけたのも束の間、
葉佩は肩を落とし、そのまま大げさなまでに首を振ってしまうのだった。
「トウヤは、優しいね」
「な、」
それは、持てるだけの勇気を振り絞った夷澤に対する、ひどく柔らかな拒絶の言葉。
とっさに反論しようとした夷澤の口が開くよりも先に、葉佩の落ち着いた声がその場に響く。
「ボクは見たよ。トウヤがたくさんの『特別』を抱えているところ。
…もちろん、だからってトウヤを責めたいわけじゃない。
たくさんの人に大切だって思われるのはとってもいいことだし、
トウヤがそんな風に大事にされてるのは、ボクだって嬉しく思わなきゃいけないんだと思う」
でも、ボクの気持ちは違ったんだ。
そう告げる葉佩の声は、少し震えているようにも聞こえた。
「なんでトウヤが持ってるのはボクの花束じゃないんだろう、ボクのだけじゃないんだろうって。
…辛かった。そんなダメな考えばっかりが頭に浮かんで、悲しかった」
「……センパイ」
それは、今まで誰にでも好意を振りまき、そしてそれと同じだけ愛されていた葉佩には、
恐らく縁のなかった気持ちなのだろう。
誰か一人の「特別」でありたいという願い、そしてそれが満たされなかったときの身を焼くような悲しみ。
夷澤は、自身こそが葉佩にとっての「特別」だったのだという何よりの告白を受けながら、
その身に覚えのある苦しさについて思いを巡らせていた。
――その痛みこそ、他ならぬ自分が、これまでずっと引きずっていたものではなかったか?
葉佩のバディになる前も、その後も、そして再び葉佩がこの学園に戻ってきたときも、
不思議と人脈のある彼の周囲には、常に親しい「誰か」がいた。
初めはその「誰か」の一員だった自分が、誰より彼の情を受けていると知った後も、
「ならば何故自分だけを選んでくれないのか」と苦い思いを噛み締めていたのだ。
――あの書初めのときだって、そうだった。
自然と葉佩の側にいる「誰か」を恨み、側にいてくれない葉佩までを恨み、そしてちっとも素直にならない自分を憎んでいた。
当然、後に待っていたのは空しい自己嫌悪。相手が好きだからこそあふれ出す情念を、好きだからこそ律せねばならない。
そんな叫びだしたくなるような思いを、目の前にいるこのどこまでもお人好しのセンパイも味わったのだという。
夷澤は軽く、頭を振った。
今までどうしても素直になれなかった自分が思いを打ち明けて、今まで何かと、
あえて言えば無頓着だったセンパイが自分の存在を認めてくれて、それでこのザマはなんだ。
「…センパイ、あんなの、別に『特別』でもなんでもないっす」
しばらくの沈黙の後に聞こえた、少しトーンの落ちた夷澤の声に、葉佩は少しの驚きを見せた。
「アンタは何か勘違いしてるみたいですけど、あのプレゼントの山、オレはただ押し付けられただけですから。
誰からも、直接手渡されたりなんかしなかった。……アンタ以外には」
そう言って、夷澤は片手の花束を抱え直す。
今まで多少手荒に扱われていたそれは、ほとんどが少しずつ痛んでしまっているものの、
さほど明るくはないこの部屋にまでしっかりと彩りを添えようとしていた。
思えば、今年のバレンタインで本当に得たものなんて、これだけだ。
だから。
「だから、アンタがオレの『特別』だってのは、嘘でもなんでもないんです」
この花束に誓って、それ以外ではありえない。
相応の恥ずかしさと戦いながらも、夷澤はそれだけを言い切った。
もうこんなことを口に出すことなんてないなと自ら苦笑し、……それでも調子の戻らない葉佩に悲しくなった。
「ああもう、これでもわかんないってんなら、この話はナシにしますよっ」
葉佩の腕を捕らえていた、既に汗さえにじんでいる手を手前に引くと、
呆然としている目の前の巨体がぐらりと二人の距離を詰めた。
近くなった葉佩の胸に、夷澤は片手に抱えた花をつぶさないようにと、半身だけその体を任せる。
すると一際自身の心音が大きく聞こえてきて、いつのまにか赤くて熱くてはちきれそうになっていた
自分の顔を意識するだけでなく、その血が駆け巡っている体全体の思考まで奪われていくように感じるのだった。
この熱が、冷めた上着を越しに届けばいいのにと、夷澤は思う。
そうしたら、葉佩の壁を溶かせるかもしれない。
本当は同じであるはずの思いを、今度こそ共有できるかもしれない。
「オレはアンタが。……『特別』で、『好き』なんすよ、センパイ」
どうして伝わらないのか、どうして伝えきれなかったのか、
そんなやるせない思いに満ちた声だった。
その微かなシグナルだけには気がついたのか、葉佩は慌てて「ゴメン、ゴメン」と繰り返す。
それを頭上で聞いた夷澤は一瞬、「やっぱりわかってくれないんじゃないか」と途方に暮れたものの、
しばらくぶりに動いた腕が、「ボクもだよ」の言葉と共に、花束ごと優しく包み込んでくれたので、
今日のところはまあいいか、と、そう思うことにしたのだった。
バレンタインの夜は、ゆっくりと更けていく。
To be continued
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