主夷リレー小説 2005年3月編
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 第十一話 うおつき



 その日、天香学園はいつもと違う空気に包まれていた。
 教師にとっては例年のことといえ、今日はここに暮らす生徒達が一年付き合った学年の変わる日。
 そして何より、三年間ここで学び過ごしてきた卒業生の巣立つ日でもある。
 早朝、そんな特別な日を丸ごと取り仕切る大任を負った夷澤は、準備の整えられた教室、
講堂を見回り、その独特の雰囲気を肌で感じとっていた。
 すぐ横には柔らかな花弁で華やぐ窓、その奥には祝いの言葉が端々まで埋めつくす黒板があり、
それにはまるで日常を忘れたかのように整然と並ぶ机たちが向かい合っている。
 日頃散々見慣れたはずの廊下には等間隔に花瓶が置かれ、
それとなく真新しい、そして清々しくも思えるような空間を演出していた。
 これらはまさに非日常的な世界を夷澤に見せつけていたが、
彼には同時に、それも所詮はひとときのものだと暗に示しているようにも見えていた。
 貼り付けられた、かりそめに過ぎない飾りの数々。
 これからほんの数時間後には全てが変わり、それがまた新しい「日常」へと上書きされてしまう。
 この学園の誰よりそのための準備を進めてきた夷澤ではあったが、
まだ、諸手を上げてそれを歓迎する気にはなれずにいた。
 彼が進む先、空調が切られたままの空気は冷たく、いち早い来訪者を静かに包み込む。
 その冷たさや、華やかに飾り付けられた校舎の様子に落ち着かないのか、
夷澤は引っ掛けてきたコートにマフラーをなびかせながら早足で歩いた。
 これまでの見回りで校内の確認はあらかた終わってしまったので、あとは校門に設えられている看板で最後。
 それできっと、本当の準備が終わる。
 慣れた足取りで昇降口から外に出た夷澤は、そのまままっすぐ正門へと向かった。
 時間が時間だけに門は重く閉ざされていたが、役員用に持たされた鍵で非常用の扉を開け外に出る。
 彼が目指していたものは、探さずともすぐ目に付いた。堂々とした、見間違えようのない文字。
 ビニール製のカバーについた朝露が、看板をきらりと輝かせている。

「『私立天香學園高等学校、平成十六年度卒業式』…」

 ただそこに看板があるかどうかの確認の為だけとはいえ、一度外に出て見た学び舎はとても新鮮で、
夷澤は思わずその場に立ち尽くす。
 学校の長期休暇中ですら≪生徒会≫にこだわっていた彼が、
わずかといえども学園を離れたのは本当に久しぶりのことだった。
 特に今年は正月からして働きづめで、実家への挨拶も軽く電話で済ませた程度。
 更にこれから会長職に就く、ということを考えると、冗談抜きで次に帰れるのは来年の今頃になるかもしれない。
 それだけ、ここは彼にとっての世界そのものなのであり、
彼が入学してきた時からの全てがこの場所に眠っていると言っても過言ではなかった。
 もちろん、今はそれよりずっと広い世界を知ってしまってはいるものの、
後一年はこの小さな世間に生きようと決めている。
 それが彼なりの、自身に対するけじめだと思いたかった。
 校門の横から伸びる並木、学園を囲むようにして植えられている桜はまだほとんどつぼみのままで、
時折、冷たい風が気の早い花びらをはらりと落としている。
 準備はもう済んでしまったのだから、なにもこれ以上体を冷やすことはあるまい、と、夷澤は足を元来た道に向けた。

 すると目の前には、違和感があるようでないような、目の覚めるような赤。

「おはよう、…っていうけど、ホントに早いのね、アンタ」
「おはようございます。ま、それはお互い様じゃないっすか、双樹センパイ」

 ちょうど学園と外との境界線上に、彼女は笑って立っていた。
 ハレの日らしく、よく似合う赤の振袖を身にまとう先輩を見て、
そういえば、彼女も今日という日に向け半年以上前からいろいろと用意していたな、と夷澤は思った。
 その筆頭が、大量の衣装カタログの取り寄せだ。

「女の子はね、こんな日はおちおち寝てもいられないのよ。……それよりねえ?
これ、アンタにも見てもらったはずだけど、どうかしら?」

 腕を軽く上げ、いつか見たような笑顔の彼女は問う。
 いつもは大人びた振る舞いの双樹も、こうしておめかしをしている時だけは
その喜びを隠せないのか、歳相応の女子に戻るのだった。
 とはいえ、元から女友達の少ない夷澤に女性の褒め方はわからない。
 しっかり結い上げられた髪も、その髪色に合わせてある着物も、
それは非常に似合っているとは思うのだが、そこから踏み込んだ表現の仕方までは知らなかった。
 そして結局、全ては使い古された一言に集約されてしまう。

「あー、……その、いいんじゃないっすか」

 何が、ともどこが、ともない夷澤の言葉はとてもつたない。
 案の定双樹には「アンタねぇ…」との溜め息を返されたが、その表情はあくまで明るいままだった。

「ま、アンタらしいっちゃアンタらしいわね。
 今だって、わざわざ『会長』自ら看板の点検に来てるんでしょ?真面目よね。
 ……あたし以外にこれを気にする人なんていないと思ってたけど、アンタなら納得だわ」

 それを素直に褒め言葉と受け取ってよいものやら、
いつもの口調でそっと持ち上げる双樹に、夷澤は一瞬戸惑った。
 どうやら、彼女も次期書記の仕事振りが気になってここに来たらしい。
 去年は自分が用意した看板を、今度は見送られる側として確かめに来たのだ。
 見た目は華やかな格好のまま、ふと寂しげな表情を見せる先輩の姿を見て、
夷澤は少しだけ、来年の自分に思いをはせた。

「残念ながら、まだ『会長』にはなれませんよ。これから仕事が山ほどあるんすから」

 卒業式自体の運営、送辞、終わった後の片付けなどなど。
 まずはこれらを終えてしまわないことには、「今年」は何も始まらない。
 夷澤はちらりと横目で校舎の時計を確認しながら、今の気持ちを正直に答えた。
 いつのまにか、自ら号令をかけた新役員集合の時間まで、そんなに時間が残されてないことを知る。

「そうね、頑張んなさい。あたしたち、これでもアンタに期待してるのよ」
「…それはどうも」

 また、調子の狂う言葉が来る。
 いきなり増えたその主語に、夷澤はいつぞやの光景を思い出さずにはいられなかった。
 今日も立つことになる、ステージの壇上。
 その時口にしたのも新しい年の始まりで、脇に控える先輩たちは、それぞれの調子で自分を見守っていた。
 「期待している」と、あの時も同じようなことを他の先輩から言われて――。
 それは確か、

「おっはよう!みんな早いんだねー……、ってサッチャン、すごい!キレイだ!」

 その時、ここにはいないはずの人物へと思考が流れた、と思っていた夷澤だったが、
なぜかすぐ側にその声が聞こえるような気にもなっていた。

「おはよう九龍。ありがとね、嬉しいわ」

 静かにこれ以上ないほど動揺している夷澤とは裏腹に、少し驚いただけで済ませた双樹はにこやかに答える。
 ただでさえオーバーな性格をしている葉佩は、彼女の振袖姿にえらく感激したらしく、
早朝とは思えぬテンションでその感激ようを表していた。

「これ、どうしたの?今日は特別なイベントだから?女の子はみんなコレ着るの?
あ、どうしようトウヤ、ボク何も準備してないんだけど…」

 表情をくるくると変えて、最後は夷澤に振り返る。
 いきなり話を向けられた夷澤がそれに返事をするまで、まだしばらくの時間が必要だった。

「ふふ、大丈夫よ。こういう正装は全員が全員必要ってわけじゃないの。
着たい人だけが用意するものだし、まああの女子寮の様子じゃ、結構な人数張り切ってたとは思うけど」
「へぇーそうなんだ!楽しみになってきたよ、ありがとう。
…でもどうしたのトウヤ、なんかいつもと違う気がする」
「…それは、アンタがいきなり出て来たからでしょうがッ」

――ちょうどいい、なんてもんじゃない。
 きっかりのタイミングで突然現れておいて、どうしたの?だなんて馬鹿げてる。

「なんでアンタがここにいるんですか、おかしいでしょう。
まだ卒業生は枕を高くして寝てていい時間なんすよ?準備がないんだったら尚更、」
「夷澤。そんな風に言わなくてもいいでしょ」
「双樹サンまで!よくないから言ってんじゃないっすか!」

 今までの態度はどこに行ってしまったのか、もはや熱弁と化してしまった夷澤の様子に、双樹は少々面食らう。
その軸にある「おかしさ」はあくまでも夷澤の主観による判断なのだが、
我を忘れた彼はなかなかその過ちに気がつかない。
そのまま勢いで問いただしたところによると、朝早く目覚めてしまった葉佩は、夷澤と同じように校舎を探索し、
思い出を振り返ろうと屋上で学園を眺めていたのだという。
 それで、遠く校門の辺りに見知ったような人影を見つけ、「なんだろう」と下りてきたとのこと。
 その供述に一通り「それは校則違反だ」とか「屋上の鍵は返すように言ったはず」だの文句をつけ終わった夷澤は、
その段になってようやく落ち着きを取り戻し始めていた。
 気付けば今まで結構な早口でまくしたてていたので、息が少し上がっている。
 それからどうにか自力で呼吸を整えると、夷澤は最後に大きな溜め息をついた。

 ――こんな大事な日の朝から、オレは一体何をやっているんだろう。
 
 見れば、目の前の葉佩はすっかり意気消沈してしまっている。
 昨日あんな言葉を掛け合った相手の変貌を目にしてしまったのだから、それはほとんど仕方のないことと言えた。
 よくわからないもやもやとした気持ちを抱えた夷澤に、葉佩はぽつりと謝ってみせる。

「ごめんなさい」
「……いや、その」
「……」

 普段会えばそれなりに仲の良い二人だけに、この光景は居合わせた双樹にも相当の驚きを与えていた。
 何より、あの生徒会内でも先輩を馬鹿に出来るほどの余裕を持つ夷澤が、
こんなに切羽詰まって誰かに突っかかることなど滅多にない。
 ただその原因は、彼女には考えを巡らせる間もなくわかる気がしていたのだが。

「まあまあ。…夷澤、アンタちょっと緊張しすぎなんじゃないの?」

 少し砕けた口調で、双樹は二人の間に入っていく。

「九龍もそんなに気にしないで。今じゃこんなに校則を気にしてるの、この子ぐらいのものなんだから」
「な、」
「そうでしょ?」
「…それも、そうですね」

 他の誰でもない、先輩役員にそう笑顔で言われてしまっては、夷澤に返す言葉はなかった。
 何より彼女がこの場をとりなしてくれようとしてくれているのだから、今はとにかくその言葉に従うしかない。
 揃って沈み込んでしまっている二人を前にして、双樹はひとまず苦笑しながらも明るく言った。

「ま、これから結構な仕事抱えてるんだもの、少しくらいピリピリするのも仕方ないわよね。
でも夷澤?だからって肩に力入れすぎちゃダメよ?」

 それはまるで、姉が弟をたしなめている時のように気楽な、そして優しい口ぶりだった。
 それから後輩の背中を軽く叩いた双樹は、「アンタなら大丈夫でしょ」と、事もなげに言い放つ。

「ね、九龍もそうは思わない?」
「…あ、うん、そうだね。元々ボクは心配なんかしてなかったし……、
 それに今日はトウヤとボクの夢が叶う日だから、絶対大丈夫」

 ショックから多少は立ち直ったらしい葉佩は、夷澤に向けて力強くうなづいた。
 ≪生徒会長≫になってみせるという野望、一人の生徒としてこの学園を卒業したいという願い。
言われてみれば、二人にとって今日以上にめでたい日はそうそうないだろう。
 ――だけど、それは。

 まだ要領を得ていないらしい夷澤の様子を察し、葉佩はその長身を屈め、両手を後輩の肩に置いた。

「センパ、」
「ボクはね、確かに式が終わったらもう『さよなら』だけど、でもこれからはそれだけじゃないって、
誰よりトウヤに教えてもらったんだ。今日はせっかくそのトウヤが準備した卒業式で祝ってくれるんだから、
ボクにもおめでとうって言わせて欲しい」

 葉佩はそれを、自身の悩みにすぐ応えてくれた彼に対する、自分なりの恩返しにしたいと思っていた。
 とても難しいことではあるけれども、「いつもいっしょ」を二人で共有出来たのなら、
今日という日を祝うのに一体何の不都合があるだろうか。
 それが、今の今まで葉佩が自身に言い聞かせてきたことの全て。

「…それは、アンタら、オレを励ましてるつもりっすか」
「うん、もちろん」
「必要ならおかわりもあるわよ」

 それぞれの意味を込めた大丈夫、の言葉と共に、先輩二人は仲良く微笑む。
 それにつられて、その日初めて柔らかな表情を浮かべることの出来た夷澤は、
改めて、これから訪れることになるだろう寂しさを知った気がしたのだった。



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