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最終話 ヒビ
ばーか。
振り返った際に見た困惑した様子の葉佩に対し、心の中で悪態をつく。
オレの勝ち?センパイが弱い?それは違う。
これが決着などと言えるはずがない。
万が一葉佩に自覚がないとしても、彼は結果的に手を抜いていたと夷澤は思う。
彼は明らかに迷っていた。
若干鈍い体の運び、揺れる視線、拳の詰めの甘さ。
たとえほんの僅かであろうと、見極めれば大きな隙となる。
そして当然上手くそこをついた夷澤が勝利を収めるにいたった。
一年前であれば、葉佩にその隙があったとしても夷澤には
それをつくことが出来なかったであろうことを考えると彼の成長は目覚しい。
逆に付け入る隙を作ったのは葉佩の落ち度であり敗北だといえばそうなのだが、
当の夷澤はそれでは納得できない。
何も迷うことなんてないのに。
思うと同時に夷澤の眉間に皺が寄った。
「待って、トウヤ!」
「?!」
追いかけてくるとは、それどころか一瞬で追いつかれるとは思っていなかった。
腕を掴まれた夷澤の体は勢いで二、三歩後退する。
思わず後ろを振り返ると予想以上に近い位置に葉佩の顔があった。
抗議も問いも飲み込んだ。声が出ない。
どんな時も《真実》を見据えてきたまっすぐな瞳がただ夷澤を見ていた。
射抜かれたような衝撃が体に、心に走る。
葉佩はじっと何かを探るように、驚きに見開かれた相手の瞳を覗き込んだ。
「一週間後」
唇の動きがやけに鮮明に映って彼から眼が離せない。
いつもどこかあどけなかった葉佩の表情がゆっくり変わる。
---こんな顔は、知らない。
「君を攫うよ」
一言、そう宣言すると葉佩は夷澤の腕を離した。
短いその言葉の意味を理解できないのか動けない夷澤の横を、葉佩が風のようにするりと通り抜けていく。
「卒業、おめでとう!」
にこり、一変して幼い少年のように笑う彼を見送り、夷澤はようやく瞬きをすることを思い出した。
掴まれた腕の感触と網膜に焼きついたあの表情。
そして吹き込まれたあの言葉が、頭を占領して離れない。
「なん、だよ・・・」
やっぱり手を抜いていたんじゃないか、というのが最初の感想。
予測も出来ない行動や力強さ、スピードを今、まざまざと見せ付けられた。
一年という月日で成長したのが自分ばかりのはずがないのだ。
むしろそうでないといけない。
自分はその鮮烈な光に憧れたのだから。
傍にいたいと、思ったのだから。
だから、負けられては困る。
まして彼が迷う必要なんかどこにもないのだ。
それが本心だったわけだが冗談ばかり言って自分を翻弄した葉佩に素直に告げるのも癪だった。
思いがけず(と自分で言うのもなんだが)勝ったあと強引に再戦へと持ち込んで、
呆けた葉佩にしてやったりと思ったものだが。
結局のところ、こうだ。
自分の考えたことなど全部見透かされた気がした。
あの瞳に。あの、見たことのない表情がそれを物語る。
---君を攫うよ
漫画やドラマのような薄ら寒い台詞のはずなのに。
不意に大人びた、真摯な顔で告げられて息が詰まった。
既に全て囚われたような、そんな感覚は首を横に振って散らす。
「・・・攫われてなんかやるもんか」
その手に収まるつもりはない。
自分はその隣に立つのだ。
大体、迷いから勝負に負けるような危なげな人にはサポートする人間が必要だろう。
だから今度こそ本気で”欲しい”と思わせてやる。
余裕も隙も見せられないくらい追い詰めて。
「捕まえてやりますよ、オレがね」
正直、あのとき葉佩九龍は迷っていた。
自分とのこれからを勝負事にした夷澤の本心がいまいちわからなかったからだ。
一緒に行ってくれるならそう素直に言ってくれてもいいはずなのに、
挑むような言葉とともに鋭い目つきで見上げられた。
それに煽られてしまった自分も自分だが、いざ拳を振るい振るわれるごとに迷いが浮上していった。
自分とともに行くことが、本当に彼の望みなのか?
次々と技を繰り出す夷澤に遠慮は見えない。
的確な動きにヒヤリとして少しでも隙を見せたら負ける、
そう思わせるほどの実力がついていることに驚き、喜びもした。
そしてそれに自分も返そうと思えば葉佩の頭の隅でふと誰かが囁く。
---トウヤは行きたくないんじゃないの?
余計なことを、考えてしまった。
手を抜いているつもりはなかった。
でも躊躇いは体の動きとなって正直に表れる。
結局何度目かの囁きのあと決定的な一打を食らってしまったのだった。
言い訳しようもなく、その上夷澤が強かったのも紛れもない事実である。
心からそれを認め、賞賛し、最後は落胆した。
悩んではみたものの彼とともに行きたいのが変わらない葉佩の本心だ。
しかし負けてしまってはそれも叶わない。
どうすればいいかもわからず途方にくれてしまう。
そのとき、
「まだ勝負はついてないっすからね!」
きょとんとしてしまったのは言うまでもない。
そんな自分の顔を見て悪戯っぽく笑う夷澤の瞳の奥。
声を、聞いた気がした。
「待って、トウヤ!」
弾かれたように走り出し、その腕を掴んで眼鏡越しの瞳を覗く。
いつだって強さを求める情熱の青い炎がこの胸をも燃やす。
この瞳が好きだと思った。この純粋な熱さが。
今そこに浮かぶのは、決意。
選び取った道への迷いはきっとないのだろう、痛いほどの熱さが葉佩に伝染する。
---ああそうか。
「一週間後」
彼はとっくに決めていたのかと今更知る。
「君を攫うよ」
自分ももう、彼と離れていられないことも。
だってこの一年間、いいやきっともっと前から、ずっとずっとこの胸は奥底で叫んでいたのだ。
そもそも今日はそれを実行するために来たんじゃないか。
だからもう迷わない。
「卒業、おめでとう!」
次に会うそのときこそ
---いっしょにいよう、いつも傍で。
胸ポケットで揺れる《生徒会》バッヂの存在に、葉佩はまたくしゃりと笑ったのだった。
懐かしい景色が眼前に広がる。
過去に見たものと全て一致するわけじゃないが、それでもやはりこみ上げるのは懐かしさだ。
自然と顔をほころばせた葉佩の傍らには人物が一人。
「懐かしいね、トウヤ!」
「何回目ですか、その台詞」
苦笑する夷澤だが、その眼には葉佩と同じように昔に思いを馳せるような色がある。
二人が辿った道をお互いに思い出しているのだろう。
夷澤の卒業式から一年。
彼らは偶然日本での仕事を受け、申し合わせるわけでもなく手早く仕事を済ませたあと、
決まりごとであるかのようにここに足を向けた。
黄昏が辺りを包む時間、ボクシング部のリングには自分たち以外誰もいない。
しばらくの沈黙を経ると、やがて葉佩が口を開いた。
「出会って戦って仲間になって別れて、
再会してまた離れて・・・短い間だったのに本当色々あったよね、ボクたち」
「・・・本当ですね」
「ねえ、トウヤ」
「何ですか」
心に浮かぶ思い出の数々。
その中で、ここで戦った記憶も強く印象づいている。
「ボク、あの時君に負けてもし連れて行くことが叶わなくても、何度でもアプローチしたと思うんだ」
一年前、夷澤が言い出した勝負は迷いを見せた葉佩の敗北で終わるところだった。
しかし一週間後の再戦は吹っ切れた彼の底力を突きつけられ、今に至る。
葉佩の傍らにはこうして夷澤がいる。
とはいえ。
「っ・・・もし、アンタがオレに負けるようだったら、」
「うん?」
「ついて行かなきゃ不安でしょうが」
どう転んでもこの未来があったのかもしれない。
「・・・」
「・・・」
再度沈黙のときを過ごす。
さっきはリング上にあった葉佩の視線は今、夷澤の横顔をじっと見つめていた。
せめて何か言ってくれたらいいのにと思う。
「な、なんすか・・・」
いたたまれずに言葉をかけると、葉佩はにっこりと笑った。
そしてさらりと言いはなつ。
「うん、好きだなーって思った!」
シアワセ、と声からも表情からもその感情がにじみ出るようだ。
恥ずかしげもなく彼はそれを口にするが、された夷澤はたまったものではない。
ストレートな愛情表現にはまだまだ慣れることは出来なさそうだ。
なんと言って返せばいいものかわからずまたいたたまれない気分になる。
「トウヤ」
「なんですか!」
そんな夷澤の様子を知ってか知らずか葉佩はのんびりとした口調で彼の名を呼ぶ。
対して切り返す夷澤の口調が鋭くなったのは、
内心大変なことになっているから仕方がないことなのかもしれない。
その言い方と同じくらい尖った目線を投げてやるとふわりと微笑んだ彼と眼が合い、虚をつかれた。
「これからも一緒にいてくれる?」
何を聞くかと思えば。
今度こそ夷澤もなんでもないことのように言ってやった。
「ふん、どこ行くつもりか知りませんが---オレはアンタの隣を譲る気はありませんけど?」
---いつでもアンタの傍にいますよ。何を今更。今更過ぎて腹が立ちます。
乱暴に次々投げつけられる言葉が柔らかく葉佩の心を染める。
ああ、イトオシイ、とはこのことか。
「・・・トウヤ」
かみ締めるようにその名を呼ぶ。
静かな炎を宿す瞳。揺らがない決意を秘めた声。前を見据える心。そのすべて。
たとえまた離れることがあっても、何があっても、ボクは君を目指すだろう。
ゆっくりと息を吸った彼が、一年前より高くなった視線を逸らさずこの眼を射抜いた。
「オレも、アンタが好きです、九龍センパイ」
---君が僕の帰る場所---
the end
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